浄土真宗の『み教え』

宗祖 親鸞聖人がお示し下さった、なんびとも救わずにおられないという阿弥陀さまの「おはたらき」。
以来、凡そ8世紀に渡り「なもあみだぶつ」のお念仏の教えは脈々と受け継がれてきました。
中でも八代宗主・蓮如上人は『御文章』の中で私たちに分かり易くお示しくださいました。
親鸞聖人の み教え
親鸞聖人が90年のご生涯をかけて私たちに教えてくださった『み教え』には、すべての人が救われていく道が説かれています。
以下の「他力本願」「悪人正機」「往生」の3つの言葉から、親鸞聖人のみ教えにふれてみたいと思います。
「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉です。
「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、「他力」といいます。
私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。
「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀如来の救いの本当のめあてである」という意味で、阿弥陀如来の慈悲のこころを表す言葉です。
阿弥陀如来は、平等の慈悲心から、すべての生きとし生けるものに同じさとりを開かせたいという願いを発されました。だからこそ、この慈悲のこころは、今現に迷いの中で苦しんでいるものに注がれるのです。
ですから、「悪人正機」という言葉を聴いて、悪事を犯してもかまわないと開き直ったり、悪いことをしたほうが救われると考えるのは、誤った受けとめかたです。
経典には、この如来の慈悲が、<病に苦しんでいる子に特に注がれる親の愛情>にたとえて説かれています。親鸞聖人は、このような阿弥陀如来の慈悲に出遇い、その慈悲が注がれているのは、他でもない煩悩に満ちあふれた自分自身であると受けとめられました。
私たちは毎日いろいろな生き物のいのちを奪いながら生きています。また、めぐり合わせによってはどんな恐ろしいことでもしてしまいます。このような私の姿に気付かせ、同時にそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀如来の慈悲であり、そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉です。
「往生」とは、本来、阿弥陀如来の浄土に往き生まれることです。日常的に使われるような、途中で行きづまったまま身動きが取れなくなることではありません。
阿弥陀如来の本願には、「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われています。浄土真宗の往生は、この阿弥陀如来の本願のはたらきによる往生です。
親鸞聖人は、如来のはたらきにより信心を得て念仏する人は今この人生において、「必ず仏に成るべき身」(現生正定聚 げんしょうしょうじょうじゅ)となり、命終わった時には浄土に生まれて必ずさとりに至る(往生即成仏 おうじょうそくじょうぶつ)と示されています。
私たちにとって大事なことは、この人生において如来のはたらきをうけいれること、つまり、信心を得て念仏する身にならせていただくことです。それはそのまま往生する身とならせていただくことなのです。
阿弥陀如来の本願に気づいた人は、それぞれの人生を大切に歩むことができます。
今月の法語
拙寺ではご縁のあるご門徒様方に浄土真宗各派からなる『真宗教団連合』刊の法語カレンダーをお配りしています。
宗祖親鸞聖人を慕う門信徒の皆さまが、本願を喜び、一日一日をお念仏の薫る家庭にしていただきたいという願いをもって、味わい深い法語が掲載されています。
今年の法語カレンダーは、親鸞聖人のご著作の中から、ご門徒の方々がふれることのできるお言葉が掲載されています。
ひと月にひとつの言葉を味わいながら、仏法に身を浸し、言葉につかまれる、親鸞聖人のお言葉を憶念する一年を送らせていただきましょう。
真宗教団連合では各月の法語についてのご法話をホームページに掲載してくださっています。
今月の御文章
御文章は本願寺第八代蓮如上人が、親鸞聖人のみ教えを、誰にでもわかりやすくしたためられた御消息(お手紙)です。
寛正2年(1461年、上人47歳)頃からのご製作と伝えられています。
乱世において生命の危機におびえる人々に対し、ただ阿弥陀仏におまかせする一念の信心によって、老若男女を問わず在俗の生活のままで救われるという、浄土真宗のみ教えを平易に説き示して、誰もが信心の喜びに生きるよう、心から念願されています。
のちに第九代実如上人は、特に大切なものを五帖(八十通)に編集されました。
その中で7月の月忌(お逮夜)参りでは『末代無智章』(五帖目 第一通)を拝読いたします。
【本文】
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
釈尊の時代から遠く離れ、真の智慧なく、浮世のしがらみの中に生きる人々は、男であろうと女であろうと、心を一つにして、我をたのめとの阿弥陀仏の仰せを、深くわがためと受けとめて、まったく他の神仏や善行功徳にも心を向けず、ふたごころなくひとえに 「阿弥陀仏よ、ようこそおたすけ下さいます」と喜ぶ人は、たとえ罪が深く重いとしても、必ず阿弥陀如来はお救い下さるのでございます。
これがとりもなおさず、第十八の念仏往生の誓願に示された阿弥陀如来の本意でごさいます。
このようにはっきりと知らせていただいた上は、ねてもさめても命のある限りは、常に念仏申さずにはおれないところでございます。
まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。
浄土真宗の生活信条
一、み仏の誓いを信じ
尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます
一、み仏の光りをあおぎ
常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
一、み仏の教えにしたがい
正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます
一、み仏の恵みを喜び
互いにうやまい助けあい 社会のために尽します
浄土真宗の教章(私の歩む道)
浄土真宗の教章(私の歩む道)は、親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めたもの。
1967年(昭和42年)4月に当時の門主(勝如上人)が制定し、その後40年の時を経て、2008年、大谷光真門主が新たに制定しました。
宗門に集う人々が浄土真宗の教えのもとに生活を送るうえで大切にする規範を、簡潔にあらわされたものであり、新たにご縁のできた方にご理解いただくための手引きとなっています。
浄土真宗の教章(私の歩む道)
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宗名 | 浄土真宗 |
宗祖 (ご開山) |
親鸞聖人 ご誕生 1173年5月21日(承安3年4月1日) ご往生 1263年1月16日(弘長2年11月28日) |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本山 | 龍谷山 本願寺(西本願寺) |
本尊 | 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏) |
聖典 |
・釈迦如来が説かれた「浄土三部経」 『仏説無量寿経』 『仏説観無量寿経』 『仏説阿弥陀経』 ・宗祖親鸞聖人が著述された主な聖教 『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文) 『浄土和讃』 『高僧和讃』 『正像末和讃』 ・中興の祖 蓮如上人のお手紙 『御文章』 |
教義 | 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。 |
生活 | 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。 |
宗門 | この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。 |